依存

先日、友人より素敵な言葉を聞きました。

「神仏を尊び神仏を頼らず」

当時阪神タイガースの監督だった野村克也氏が、ペナントレース前の神社参拝時に受けたインタビューの一言だったそうです。
普通に考えるならば、ペナントレース前の参拝は「我が球団の優勝祈願」ですよね。
個人的な見解ですが、野村氏は恐らく「神様に優勝出来るようにお願いする」気持ちではなく、自分達が優勝を目指して努力をする事を神仏に誓うつもりで参拝されていたのだと思います。
ちなみにこの言葉自体は、晩年の宮本武蔵が記した「独行道」にあるそうです。

人はひとりでは生きていけないと言われています。
社会で生きていくには、親からの保護や家族の援助、他の人との係わり合いが必要不可欠です。
そして、道なき道を進まなければならない人生に対する不安は誰しも抱くでしょう。
このような所から、誰かに、または何かに「頼る」気持ちは誰もが持つ当たり前の心理です。
これを心理学の世界では「依存」と言います。

依存傾向が強い人は、周囲の人や物から物理的・精神的な「支援」を得る事に対して貪欲で、それらを自らの判断や行動の指針にします。
つまり、自分の意思や判断を他に任せているのです。
そうすれば、その判断が失敗だったとしても「自分の責任」とはなりませんので、自分が傷つく割合は低くなります。
別の見方をすると、判断を他の人や物に任せているために、自分の失敗や不幸、さらには自分の欲求が通らない事も、自分が原因ではなく他の人や物のせいだと考える傾向が強くなります。
例えば、「職場の対人関係が上手く行かないのは会社のせい」とか「家庭が上手く行かないのは旦那のせい」、「仕事がみつからないのは不況のせい」、「何もかも上手く行かないのは悪霊が憑いてるせい」などがこれにあたります。
この考え方が習慣化すると、物事の本質を見極め冷静に分析するような「深く考える」事が残念ながら苦手になってくるでしょうね。

他に依存傾向が強い人の特徴として、白黒はっきりしたもの(決定的な判断がされているもの)に飛びつきやすい、自発的な意思を持ちにくいため騙されたりマインドコントロールされやすいなどが挙げられます。
また、特定の物事に対しての依存が習慣化して、それがないと日常生活にも支障を来たすほど不快・不安になると依存症と言う心の病になります。
依存は誰しも持っている普遍的なものですし、それ自体が悪い訳ではありません。
しかし、強い依存は逆に自分を苦しめる可能性があります。

何かあると誰かのせい、何かのせいだと考えてしまう傾向の強い方は、一度自分の心の中を覗いて「本当の意思や欲求」を探してみると良いかも知れませんね。
[1]週刊ココロコラム
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