もったいない

日本人の民族宗教は「神道」です。
神道は「八百万(やおよろず/数え切れない程たくさんの意味)の神」がいて、森羅万象あらゆる物事に神が宿っていると言う概念があります。
それを如実に示しているものとして、神社の「ご神体」が挙げられます。
鏡、剣などの人工の品以外にも木や山や滝など、神社によって様々なご神体があります。
お正月のしめ縄や門松などのお飾りも、ご神体同様に「神様が来た時に宿られる品」(依り代/よりしろ)です。
面白いところでは大相撲の横綱も同様で、神聖な職だからこそ品格品格と口うるさく言われるようです。(^_^;)
また、今時は全く聞かれなくなりましたが、親がご飯を残す子供に「ご飯を残してはいけません。お米には八十八の神様が宿っているのですよ。だから米は八十八と書くのですよ。」と言う言葉もありました。

このような「神様が宿る」と言う概念は古来日本から連綿と受け継がれて来ました。
ですから日本人は自然を敬い、感謝し、自然から出来た「モノ」に感謝し、大切にする心を持っていました。
「もったいない」は、このような下地があったからこそ自然に生まれてきた精神と言えるでしょう。

もったいないは「勿体(もったい)」がない、つまり勿体を否定する言葉です。
勿体とは物事の本質、物の品位、物の生命など「物が本来あるべき姿」を意味しており、勿体無いとは「物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ち」或いは「物の価値を生かしきれず無駄になっている行為を戒める」と言う言葉なのです。

もったいないの精神が一番上手く生かされていた社会は江戸時代です。
着物は縫い目をほどくと四角い布になりますので、他の着物を作る事も出来ますし、最後は雑巾やおしめとして繰り返し使われていました。
風呂敷はあらゆる物を包み持ち運べる変幻自在な鞄として使用されていました。
使い古した手ぬぐいを下駄の鼻緒にする事もあったそうです。
紙(和紙)は漉き直してリサイクルペーパーとして再生し、かまどの灰は石鹸として使用しました。
また、街中の糞尿を専門の回収業者が回収し、農家が購入し肥料にしていました。
さらに、たるや桶のたが(枠)をはめ直す「たが屋」、キセルの修理をする「羅宇(らう)屋」、割れた茶碗などを接着して直す「焼継(やきづき)屋」、傘やちょうちんの張替え屋、鍋や釜など金物修理の「鋳掛(いかけ)屋」など、いろんなジャンルの修理屋がいて、生活雑貨のほとんどを修理しながら使用していました。
このように、江戸時代のリサイクル・リユースは徹底していましたので、ゴミが増えず町は清潔だったと言われています。

現代社会はモノを作って売る→消費する経済活動が世の中の流れになりました。
戦後〜高度成長期の頃まではモノを大切にする心と、良いモノを作る職人の心は残っていましたが、時代を経るごとに使い捨てや寿命の短いモノ達ばかりになりました。
大切にする前に壊れてしまうようなモノ、大切にすると流行おくれになってしまうモノ、修理するより買った方が安いモノに囲まれて生活している私達は、いつしか「もったいない」の心がどこかに潜んでしまったのかも知れません。

昨年、賞味期限切れの食材を使っていた業者が次々とニュースとなりました。
多くの業者はその動機を「もったいないから」と語っています。
個人的見解ですが、賞味期限と共に何か大切なものも一緒に切ってしまっているような気がします。

ノーベル平和賞を重唱したケニア出身の女性環境保護活動家ワンガリ・マータイさんは、2005年2月に京都議定書関連行事のために来日した際に、「もったいない」と言う言葉を知り感銘を受けました。
現在「MOTTAINAI」キャンペーンの核としても活動されています。
最後にMOTTAINAIキャンペーンのサイトからの引用で締めくくりたいと思います。

Reduce(ゴミ削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)という環境活動の3Rをたった一言で表せるだけでなく、かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)が込められている言葉、「もったいない」。
マータイさんはこの美しい日本語を環境を守る世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを提唱しました。
[1]週刊ココロコラム
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