自然の恵み

先日、知人よりご自分の田んぼで作られたお米を頂きました。
時を同じくして、別の方より収穫されて地元のスーパーに並ぶ前の丹波の黒豆の枝付き枝豆を送って下さいました。
頂いたお米と枝豆で豆ご飯を作ったのですが、お米も枝豆も甘くて風味があり物凄く美味しかったです。(^^)
夏には他の方より、自分が作ったじゃがいも、玉ねぎ、ししとう、なすび、きゅうりなど採れ立ての野菜を頂きました。
形は不揃いで、農薬をほとんど使っていないため虫食いや痛みがあります。
しかしとても新鮮で、なすびのへたのトゲトゲは痛く、きゅうりのイボもしっかりしていました。

知人より頂いた野菜やお米は、その素材の味自体がとても美味しく、手をかけて調理をするのがもったいない気がしました。
それと共に、その方が手間をかけて大切に育てた作物である事と、時間をかけて育まれた自然の恵みを実感します。
美味しいものを頂いた事もありますが、知らず知らずのうちに自然の恵みに感謝の気持ちが湧いて来ました。

私は海でも山でもない町で生まれ、自然や田舎や田んぼや畑に全く縁がなく育ちました。
自然との触れ合いは、せいぜい子供の頃に近所の公園の池でザリガニ釣りをしたり、学校の遠足の時位でした。
旅先でもない限り、採れ立ての作物や魚介類や山菜などを頂く機会はありません。
食べるものは外食か出前、またはスーパーで買ってきたものを調理するという所です。
そんな思いに浸りながら、枝豆ご飯を美味しく頂いている時に、はっと気付きました。

スーパーで売られている、半分に切ってラップがかかっているキャベツや、ナイロンのネットに入った玉ねぎ、パックに入った魚の切り身や豚肉などに対して、今まで「ただの食品」としてしか見ていませんでした。
キャベツを作った人がどれだけ丹精込めていたとしも、どれだけ大切に育てて来られた豚だったとしても、スーパーでは自然の恵みや作った人の思いが見えてこないのです。
そして、「晩御飯の材料」としてカゴに入れた「ただの食品」を、お金を払って手に入れ、調理して食べる。
外食も同様で、お金を払ってお腹を満たす、それが美味しければラッキー。ただそれだけでした。
食べるために必要な対価を払っているため、そこに食べ物が満足に食べられている感謝の気持ちは湧きません。
その上、見えてこない自然の恵みに感謝する事など一度もありませんでした。
こんな感覚ですから、食べ物を残したり捨てる事は「もったいない」と言う気持ちはあるものの、案外抵抗がなく出来る面もあります。(^_^;)
もしかすると、都会育ちの人の中には私と同じような感覚の方もいらっしゃるかも知れませんね。

ご飯を残そうとする子供に親が言う言葉があります。
「ご飯を残してはいけません。お米には八十八の神様が宿っているのですよ。だから米は八十八と書くのです。」
日本古来からの宗教である神道には「森羅万象全ての物事に神が宿る」と言う考えがあります。
そんな中でも、日本の主食・お米は88体もの神様がいると説いている位ですから、古来の人々は大いなる感謝の気持ちでご飯を頂いていたのでしょうね。 いつから食に対する感謝の気持ちが薄らいでしまったのでしょうか。

農薬や衛生問題、薬物混入など、最近は食の安全について考えさせられるニュースが連日のように報道されています。
その多くは、不特定多数の人々を危険にさらす可能性を承知の上で、一部の人たちの私利私欲によって成された人災です。
昨今は食べ物に関して感謝の気持ちどころか信頼感すら薄らいでいます。
真剣に自然と向き合っている農業や漁業の方々と自然の恵みが見えてくるような食べ物を、感謝して頂ける機会がもっと増えたらいいなぁと思います。
[1]週刊ココロコラム
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